駄目社員はむの日記

USO800 certified.

初瀬街道プラスで行こう(2)

2チェックポイント「初瀬ダム」。


ダム湖だ。そしておそらくこのところの大雨のせいで泥水。多分この先が大和川だ。





実は以前初瀬路を経て長谷寺に来た時に、このダム湖まで足を延ばしてみたいと思っていたのだ。
今回選んだ榛原~初瀬ダムのルートは、キツ過ぎず、でも風景・足元とも結構変化に富んだ、よいウォーキングコースだ。うれしい発見だった。

県道38号を少々歩くと、まもなく長谷寺


第3チェックポイント「長谷寺」。


いわずと知れた、この地域を代表するハイパー山寺、日本中に多数の末寺がある真言宗豊山派の総本山だ。
ここにお参りすることは古来「初瀬詣」(はつせもうで)と称される。おなじ宇陀市内には、豊山派から分離した室生寺派もある。しかしどうやら「室生詣」とは称さない模様。きっと「初瀬詣」は歴史の重みを伴った、特別な呼称なのだろう。*1
#で、現在の地域名は初瀬(はせ)だ。ああややこしい。



今回も石段を登り、本堂をゆっくりと拝む。
前にもここに書いたかもしれないが、奈良・京都あたりのあちこち見て回れて人が往来するような地域と違い、長谷寺は「この寺を目指してきた人」しか来ないお寺なので、そんなに混まない。
変わらぬアドミッションフィー500円を支払い、仏教ワンダーランド見物へ。

しかもまだ午前10時過ぎである。とっても空いている。


人がいないもんだから、登廊(のぼりろう)でこんな写真が撮れてしまう。
ご参考:登廊|奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺

定番のルート。






本堂(大悲閣)→本長谷寺(もと-)→五重宝塔と巡り、心から眼福。




五重塔は昭和の建築であり、もともとの三重塔が明治初期に火災で焼失して80年ほどして再建されたものだという。

ちょっぴり紅葉が始まっていた。超ちいさい秋みつけた。この紅葉の片鱗では、みんな足を止めスマホを向けていた。もしかすると秋の紅葉じゃなく、何かの理由で枝葉に栄養がいきわたらなくなっただけかもしれない。
とはいえ、数か月後、あたり一面紅葉になったら見向きもされないだろう。これぞブルーオーシャンアーリーアダプタの勝利である。意識高い枝から学びがあった(謎)。

わき道から下山。


下山コースに歴代僧正のお墓がある。そこのキャプションが、シレッと意外なことを述べている。長谷寺は昔からではなく「1588年から真言宗になった」のだという。

  • 7~8世紀創建ともされ平安時代貴族が足しげく通ったというのに、戦国時代末期からとは意外に最近じゃないか。
  • 思えば、先ほど目にした「本長谷寺」は、内装は金ぴかだったけど、建築物としてはお世辞にも豪奢なものではなかった。信仰の対象とは言え、小ぢんまりといってもいい。
  • 一方贅を尽くした「本堂」のキャプションには、1650年竣工と書かれていた。1588年から半世紀余りか。
  • さらにその前に見た「高束城跡」には『1564年に落城。長谷寺と関係の深い藤原氏滅亡』云々とあった。寺と目と鼻の先に山城を構えていた、後ろ盾?の一族が滅んで、四半世紀後だ。
  • そうすっと長谷寺が僧正を迎え真言宗に鞍替えしたのは、その後ゆるぎない経済力・宗教的権威を得ることとなったターニングポイントだったりするのか?

いろいろ想像が膨らみますね。ここでお勉強。
長谷寺 - Wikipedia

創建当時の長谷寺東大寺華厳宗)の末寺[2] であったが、平安時代中期には興福寺法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により真言宗豊山派が成立していった。

はえー。結構やんちゃに変わってるんじゃね?



いろいろ考えながら階段を降りていくと、元来た山門のそばまで戻ってきた。脳内に年表を展開しながら楽しませていただきました。*2
(つづく)

*1:他に特定地域・寺社を指す「**詣」って、熊野詣、伊勢詣が聖地トップ2だと思うが、あとせいぜい高野詣、春日詣、金毘羅詣ぐらいしか聞かない。

*2:ウォーキング道中、見かけた道標・看板に記載された年代を脳内にプロットし、前後関係を想像するのは、現地の郷土史を試食しているようなものだ。楽しい。