Sarajevo Walking Toursに参加する。
シーズンオフのせいか、ガイドの他にはポーランド人3人と僕だけだった。
まずは近現代史。
オーストリア・ハンガリー帝国〜ユーゴスラビア〜ボスニア紛争をたどる。
- 最初に案内されたのはMiljacka川に面した「中央郵便局」だった。オーストリア・ハンガリー帝国支配下、ウィーン様式で建てられたが、1992年〜の紛争で郵便・通信手段の破壊を企図して*1一番に狙われたらしい。*2 だから郵便局の修復は、復興の象徴でもあるのだそうだ。
- 2012年に完成した新しい橋。アートしちゃってて(見た目がメビウスの輪というかジェットコースターというか)えらく工費がかさんだらしく、「経済傾いて失業率高いのに何してる!」と世論はブーイング多数だったとか。
- オーストリア・ハンガリー帝国で初めて電灯が灯り、欧州で初めて終日路面電車が営業したのは、サラエボ。というのも、帝国が首都ウィーンで本格導入する前に、都市実験に使われたのがこの街だったからとか。
- 紛争で町のほぼ全部の建物がダメージを受けて、今綺麗になった建物は修理の結果。多くの建物に残るボコボコは、弾丸が直接あたったものよりも、爆発で飛散した破片が当たってできたものが多いらしい。
- 市内には紛争の人的被害が出た場所約100カ所に、血痕をかたどった石が埋め込まれている(サラエボ・ローズと呼ばれる)。
- 戦争で亡くなった子供の碑。子を守る母がガラスで作られており、周囲には子供の足型が刻まれている。英文のキャプションが設けられていないため、観光客が「変なモノ見つけた」的な写真を撮るらしい。残念すぎる。
- Eternal Flame。チトー率いるパルチザンが町を解放し、1945年の凱旋で民衆が熱狂したのを記念しているとのこと。青白赤の3色(ユーゴスラビア国旗のトリコロール)でその時の模様が書かれている。ちなみに、この碑を起点にした通りが「Tito Street」。*3
- 1984年、サラエボ冬季オリンピック。札幌(1972年に開催したばっかりの)が欲張りにも再び立候補して最後まで争ったが、冷戦時代のコンプロマイズで両陣営ともボイコットせずにすむ小都市サラエボに決まったんだって。冬季五輪をホストした国は案外少ない。冬季オリンピック - Wikipedia
- Bosnian Coffeeを飲んでみる。この調度品は銅製で、20EURも出せばワンセット買えちゃうらしいが、たぶん買って帰ってもすぐ飽きるな。この飲み方はトルコ支配の名残だが、本家トルコはお茶(チャイ)文化に変わっていたのだった。
旧市街の東側でオスマントルコ支配をたどる。
川の北側に広がる旧市街は、バザールを境にして「西半分がキリスト教・東半分がイスラム教」に分かれている。昨日も来たのだが、ローマンカソリックの大聖堂から半径150m圏内に、シナゴーグ・正教・モスクがあるという。*4
- 15cにオットーマン(=オスマントルコ)に征服されたあと、16cに王朝が最盛期を迎え、サライェヴォもまたgolden ageを迎えたようだ。トルコの支配は15-19cまで400年、続くオーストリア・ハンガリー帝国支配はわずか40年。どっちの文化的影響が色濃く残るかは明らか。
- 「世界初の電飾が灯ったモスク」・「欧州最初の共同トイレ」は、旧市街のイズラミック側地域に現存。
- Baby Ben*5とも呼ばれる時計塔の時計は、いつもおかしな時間を指しているように見える。*6
ということで、カオスでわかりにくくて難しい事いっぱいで、ひとりで歩いてもしんどいが、いったんガイドに案内してもらうと理解が深まる町だった。15時終了。よく歩きました。