そして本日のメインエベント「仁徳天皇陵」。
第16代天皇。日本古代史のビッグネーム・・・かどうかは知らないが、やけに長い在位。もし実在していたのであれば、少なくとも周囲を抑えトップであり続けることに長期間成功した天皇だったのだろう。
日本最大の陵墓。でかすぎて、わけがわからないよ。
全長500メートル弱という、ワケワカメなサイズ。
周囲は陪塚だらけ。
流石にこの巨大な古墳だけは恐れ多いと思われてきたのか、陪塚も結構しっかり残っている。
拝所のそばに、ボランティアさん方。
ご年配のボランティアさんがたが立っていたので(炎天下なのに)、このあたりの見どころについて伺った。
今日は百舌鳥古墳群を歩き倒していると伝えたところ、品のいいおばあちゃまがメチャクチャ嬉しそうに曰く、
- いたすけ古墳の崩れた橋は、もともとブルドーザーで古墳をぶっ壊すための搬入路としてつくられたもので、市民の保存運動で工事がストップされ、堺市が土地を買い上げた後も、運動の象徴として意図的に朽ちたまま残されていたのだそうだ。そして最近樹木が綺麗に刈り上げられたと。
- ああ、あの橋の残骸はそういうことか。
- 百舌鳥古墳群の中で、仁徳天皇陵に比べれば在位が短いとはいえ履中天皇や反正天皇の御陵がやけに小さい*1理由は、日本書紀に「仁徳天皇陵の南に履中天皇陵、北に反正天皇陵」との記載があるおかげで治定されてしまったのだとか。伝説を現物に都合よく合わせこめられて「治定」され、そのまま現代に至るとか、ほんまかいや。まあいろいろあるもんだ。*2
- なるほど、先ほどの履中天皇陵には確かに百舌鳥耳原「南陵」とあった。人に聞きながら歩くもまた楽し。
- 山の辺の道周辺や古市古墳群への、沸々とした対抗心も感じた。
本日の最終チェックポイント:反正天皇陵。
第18代天皇。仁徳天皇の息子にして、履中天皇の実弟らしい。
リアルはどうだったのかは知らんけど、家系図的には、この辺りの皇位継承はなかなか危うげだ。
仁徳天皇の後は、次々に息子たちに継承されていくが、履中天皇は在位わずか6年で崩御、反正天皇はさらに短く5年だそうだ。父ちゃんが長生きしすぎたせいだろうか。しかもその後の皇位は兄弟の家系を行ったり来たりしている。
ドラマを作れば相応に泥沼で腹いっぱいな1クールになることだろう。
たしかに百舌鳥耳原「北陵」とある。先ほどのおばあちゃまのおっしゃる通りだった。
柵でガッツシブロックされていて、手前に木々が多すぎて、ミササギの様子をがあまりよくわからない。意図的なものなのだろうか。残念。
なお、拝所の面する通りが熊野街道だと言う。ほほう!
https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/018/index.html
最後に、方違神社(ほうちがい-)。
「方違」は平安風に「かたたがえ」、とは読まないらしい。
この神社、16時にはビジネス的には閉まっていて、境内には入れたけれど、空虚だった。
ただ、ここから反正天皇陵は良く見える。ここがベストビューなのかもしれない。
1645JR堺市駅着。
まとめ。
というわけで、弊日記のひつこいコンテンツである「街道歩き」の番外編、百舌鳥古墳群ぐるぐる歩きをお届けしました。
堺は食わず嫌いだったかもしれない。
古墳の理解を深めるもよし、ここをスタートにして街道歩きするもよし。もっと来てみたいと思った。